「ナラティブ・メディエーションの概要」からの「中動態と外在化する会話」という二日間

「ナラティブ・メディエーションの概要」からの「中動態と外在化する会話」という二日間の学びを終えました。

メディエーションについては、前回の学び(6月)よりも、より組織やグループへのファシリテーションにも適応できそうな予感を感じることが出来ました。
それと共に、フィッシャー&ユーリーの4つの原則から、ファシリテーションの中で違和感を感じた事象におけるプロセスの要因に気づせてくれた気もします。

中動態のお話は、脳みそ飽和状態ですが、直感的にはとても面白かったです。

中動態の世界とは、完全に自由でも強制でもない世界。
能動態と受動態、「する」と「される」という2項対立ではない世界。
古代には能動態に対する存在は受動態ではなく中動態だった。
それは自分自身に対する動作を表す態。
意志と選択は明確に区分される。意志は何かを開始し、選択は過去からの帰結であって意志ではない。
結果として起こる行為。それは意志の実現ではなく、‎社会文化的なものが関連した結果なのでは?
「~になる」「~になっている」みたいな。

人は分かり合うために言葉というものを手に入れたのに、その言葉の違いや使い方次第で分断を生みだしてしまうのですね。
そして、人は言葉の定義をしたくなる動物。でもその定義した瞬間何か大切なものを抜け落としてしまう・・・関係の間の余白を埋めてしまう。
定義づけされないところに余白が生み出され、入口出口の可能性を広げる・・・そんな気持ちを持って「言葉」を大切に扱っていくことが私たちに出来ることなのかもしれません。