「聴く」というスキルをどう引き上げていくか

リスニング実践トレーニング、今回のタームは本日が最終回でした。
21年の2月からスタートし、約2年間続けました。延べで約50個くらい?正確に数えてないので違うかもですが、それくらいの数のセッションの逐語を読み、聴いて、問いかけ方を検討してというトレーニングを通して、あーかな、こーかな、と可能性のアイデアを考えるのは、とても勉強になりました。何より、傾聴というものの理解はだいぶ変わったと思っています。何より、数をこなすことは重要です。
まだまだではありますが、最初の頃とは明らかに違う自分は確かにいると感じます。きっとまたすぐに壁にぶつかる気はするのですが。

このリスニングトレーニングを受けた私の体験から「聴く」というスキルをどう引き上げていくかを考えてみたいと思います。

組織において1on1ミーティングの大切さが謳われるようになり、マネジメントやリーダーも人の話を聴くという業務が日常になっている時代になりました。
でも、ちゃんと聴けているのでしょうか?

リスニングとは「聴く」こと。「聞く」ことではありません。
リスニングトレーニングを受講した回数は定かではありませんが、自分のセッション含め、恐らく100回弱のセッションを研究し、この体験によって、私の聴く力は恐らく相当変わったのではないかと思っています。傾聴については、以前から「知っていました」。ですので、やればできると思っていたのですが、甘かったです。それを理解できたのも、このトレーニングのおかげです。

では、どんなトレーニングだったのか・・・

自分で逐語を起こす価値

まず、リスニングトレーニングの構造は、面談(ペアで話を聴くこと)を録音する回と、語録おこし作業と、逐語検討の回、という3つのフェーズがあります。
この逐語おこし作業は、正直、めちゃくちゃ大変です。
時間はかかるし、タイプミスの修正箇所は多発するし。繰り返し繰り返し聴く中で、話し手の話し方の癖や声を丸暗記してしまうくらいになります。
最初の頃は、なんとか手間を省きたくて試行錯誤しましたが、結局、再生して戻して再生して戻してを繰り返しながら、愚直に自分でタイピングしていくのが一番効率的だし、意味があると気づきました。
どんな意味があるかというと、このフェーズがめちゃくちゃ内省を促してくれる時間になるということ。当たり前ですが、逐語をおこしている時は、自分の語りも死ぬほど聴き返す時間になります。ハッキリ言って、自分の声を聴き返す機会はほぼ日常ではありません。これが自分の声なの?っていう違和感は回数こなすと慣れてきますが、一方、どのように相手の語りを聴いているのかについては、音声という何よりも正確なフィードバックが返されることで、グサグサと突き刺さってきます。
だけど。
誰かしらから指摘された時の嫌な感じとは違って、このフィードバックは、受け取ることが出来るのです(そもそも、自分の声なので)。その音声を受け取めて、書き起こして、読み返して、じんわり考えて。場合によっては、なぜこんな風に発してしまったのだろうと、心の中で叫び、頭を抱えてしまうこともあります。そんな時は、一旦作業は中断して一呼吸します。
でも、次第に、自分で自分の課題に気づくというか・・・どこをどう変えていく必要があるのかな?という自問が自然と生まれ易くなっている気がします。
逐語記録には、自分の語りを聴きながら書きながら、「その時何を感じていたか?」と「逐語を起こした後に改めて感じたこと、考えたことは何か?」についても、書き込んでいきます。
この「その時」と「今」の両方を振り返ることがとても重要なのです。

逐語を読むことから学ぶ価値

逐語は、事前に送られてきて読んでおくことが出来ます。そして、自分なりに、「ん?」と感じるところ、「この言葉の意味は何だろう?」・・そんな、気になるところにマーキングしていきます。そして、もしかしたら、ここはこんな風に伝え返せるかもなしれない、というアイデアが浮かんだら、それは付箋に書きとめておきます。
こうした事前準備の時間は、概ね30分くらいでしょうか。トレーニングが始まるまでの時間をこうして過ごします。この予習の時間が結構大事な時間だと思っています。文字だけで感じ取る印象と、後で音声と共に感じ取る印象と、どう違ってみえるのか、みえないのかを考える材料をどれだけ作っておけるかが、仲間との探究プロセスを濃くすることに影響していきます。

逐語検討は、自分の逐語を検討する場合と、他者の逐語を検討する場合と、2パターンあります。
自分のだからとか、他者のだからということに余り違いはないと私は感じています。それは、逐語録となってみんなの前に置かれた段階で、個人の課題から私たちの共同研究の課題として存在することになるからかもしれません。
毎回簡単なチェックインの後、まずは逐語作成者(つまり聴き手)が、どこをどう検討したいのか?その人自身が感じている課題提示から始まります。つまり、自分からここを検討して欲しいというリクエストを出すのです。他者の観点のフィードバックではない、というところがポイントです。
それを受けて、検討する問いそのものについてや、そもそもそこを検討したいと思わせたものは何か等、共に学ぶ仲間たちと確認しあいます。ここは、私たちがこれから共同研究するテーマについてしっかりと認識合わせをしておく・・という意味あいがあると私は考えてます。
その後、それぞれが逐語録を手元で見ながら、音声を聴いていく。音声はだいたい30分弱程度。ある程度のところまで聴いて音声を止め、そこまでで気になったところを検討することもあるし、セッション全体をまず全部聴いてから検討する場合もありますね。個人的な感覚では、全体をまずは聴いてから検討する方が私は好きです。
なぜなら、そのセッションはそのセッションとして一旦は成立しているわけだし、まずはその流れ全体を受け止めたい気持ちがあるから。その上で、どこでどう語りが動いていったのか、新たな可能性はどこにありそうか、みんなと探究したい、という思いがあるからかもしれません。

新たな可能性をみんなで探究していく価値

「ここで、〇〇という言葉について、もう少し聴かせてもらえますか?って問いかけられるんじゃないか?」とか
「ここで、△△と伝え返すことも出来るかもしれないね?」とか。
みんなで、あんなことも出来るね、こんなことも出来そうだね、と、逐語録を真ん中に置いて話し合っていきます。
事前に読んだ文字情報だけでなく、声のトーンも加わることで、逐語の文字を読んだ時には感じ取れなかったものも伝わってくるし、大きく印象が変わることもあります。自分が考えていたことと同じポイントをお話する方もいれば、違うアプローチを提案する方もいる。自分とは違う解釈をしている方の提案があると、なるほど!そういう捉え方もあるんだな、という発見があるのです。

この新たな可能性をみんなで探究していくプロセスが本当に面白いのです。
こう聴くべきである、という正解的なものは提案されません。
あんな可能性もこんな可能性もある。その中で、自分が聴きやすいこと(逆に言えば聴きにくいことの存在も)や、捉え方の枠組みにも気づいていく。
たとえ自分が逐語の当事者だとしても、指摘された感は余りなく、客観的に受け取れている気もします。それは、人を対象として指摘や批判批評がなされないからかもしれません。
誰かの正しいという一方向に矯正されることなく、フラットな場で他者との相互作用によって生まれた多様な可能性から、自ら次の方向性を選び取る。あーこんな可能性もあったんだー、そうかーこういう風に受け応えればよかったのかー、次はこうしてみよう~!と、素直に考えることが出来るのは、本当に貴重な時間だと思ってます。

学びの主体性を促す

このリスニングトレーニングのプロセスでは、自己内省、課題の自己認知、共同研究からの自己選択。こんなプロセスがあると思っていますが、大切なのは、自ら選びとるプロセスである、という点でしょう。
所謂「愛あるフィードバック」という考え方がありますが、そのようなやり方でなくても、否、そのようなやり方でない方が、自分にしっかりと向き合って自分を受け止めることが出来るのではないか。別に褒めてもらう必要はないのかもしれません。
結果として、私自身も、逐語への事前の取り組み方も変わったし、何より自分で自分の聴くことに対する成長をほんの少しずつでも感じることが出来て、なんだかとっても楽しいわけで。その楽しさが継続のモチベーションになっています。

このリスニングトレーニングというものを組織のリーダーたちもやってみる価値は大いにあると思います。
自分の聴き方を客観的に捉えられているか、リーダーとしてマネジメントとして、とても重要な視点であるにもかかわらず、ここに焦点をあてている方がビジネス領域では特に少ない印象を受けます。

まずは、聴いてもらう体験からはじめてみませんか?
聴かれる体験をしてみたら、どう聴いたらいいかが分かるかもしれません。

(以前Noteに書いたものを再編集しています)