”私たちには「違う耳」をいくつか持っている”

昨夜はガーゲンの「あなたへの社会構成主義」を仲間と読みました。
そこで、「隣接対」という、『発話(行為)は次の発話(行為)と対をなして進行する』という会話分析の概念を知りました。
つまり、挨拶は挨拶を、質問には答えを、招待には受諾/辞退、要求には承諾/拒否、そして非難には修復という、反応を引き出す作用があるということ。
特に、「非難」に対する隣接対が「修復」であり、そのあらわれ方が「言い訳」と「正当化」に分類されるという。

なるほど。。非難は修復したい気持ちの表れなのですね・・
その非難という発話の背景にある、その人の大切なもの、倫理観が反応しているのかもしれません。
そんなところに思いを馳せ、自分の過去にも思いを馳せながら、言葉の影響を考えました。

先週「言語は頼りにならない」というある先生のお話を聴きました。
言語で表されるものが受け手の想像を超えて、深く厚く捉えにくいということであり、浅く薄く分かったつもりで捉えてしまうと「頼りにならない」ものになる、という意味であろうと私は捉えています。

そう思うと、一昨日読んだマイケルの「セラピストの人生という物語」で感じた、”私たちには「違う耳」をいくつか持っている”というお話と繋がっていきました。
人は思い出の物語の中に生きていて、そのストーリーの中の声に支配されていたり、でも必ずや支えていてくれる人の声もあるはず。
ただ、その声を聴く耳は、もしかしたらいつも使っている耳と「違う耳」かもしれない。

だからこそ、その声を招き入れる余地を残すようにマイケルは言葉を選んでいるのですね・・・
そこには、マイケルであってもジレンマを持ちながら相手の話を聴いている姿も描かれていました。

二つの本は、難しい表現がいっぱいあるのですが、仲間との対話がその文字・言葉たちを味わう理解を助けてくれました。
今日はこれから、アウトサイダーウィットネスとリフレクティングチームの学びです。
どんなリフレクティングの旅に出会えるのか、自分の耳の使い方を楽しんでみたいと思います。